
目次
なぜ突然こんな話かというと、それは娘の中学校が悪い(笑)
原因はストレスだったのか羊水検査だったのかわかりませんが、実は私は兆候なく突然妊娠30週で死産を体験したんです。
「林間学校のキャンプファイヤーのあと、親御さんの手紙を読ませたい」という中学校の要望に応えるため、彼女の兄の出産体験を書くことにしました。
この世で生きることなく旅立った兄のことを伝え「生きていることに意味がある、思いっきり自分の人生を楽しもう!」って考えて生きてほしいんです。
赤ちゃんのお腹に腹水が
当時私は社宅から一番近い産院に通っていて、健診で「子供のお腹に水が溜まっている」と言われました。
超音波の画像で白い内臓がきゅっと体の片側に寄り集まっているように見えます。
大学病院を紹介され、とりあえず入院して検査を受けることになりました。18週めのことです。
一通り基礎的な検査を受けたあと、羊水検査をするかどうか尋ねられました。
羊水検査(ようすいけんさ)とは出生前診断の一種。 妊娠子宮に長い注射針に似た針を刺して羊水を吸引すること(羊水穿刺)によって得られた羊水中の物質や羊水中の胎児細胞をもとに、染色体や遺伝子異常の有無を調べる。 一般に妊娠16週以降の時期に実施される。
「損失率は0.3%です。」と先生に言われて、???となった私ですが、400回に一回は、流産・破水・出血などの合併症があるという意味でした。
原因がわからない腹水でとにかく不安だった私たち夫婦は「対処方法がわかるなら」と思って検査をお願いしました。

結果が出るまでがつらい!羊水検査
検査自体は、イソジンで皮膚を消毒して針の長い注射器を刺すだけ。特に痛いこともなく、すぐに終わりです。
でも実は、終わった後検査結果をもらうまでの2週間が辛かったんです。
羊水にウィルスが存在していないかとか、考えても仕方ないことがきになりまくりです。
染色体異常とは、いわゆるダウン症などの症状の原因になるもの。
そんなことを考えることになったのは、22週目までは人口妊娠中絶が可能だったからです。
お腹の中で動いている子供を産まない選択をするなんて、ありえるのだろうか?というのが正直な気持ちでした。
結局ウィルスや染色体には異常がなく、男の子だということだけが新たにわかり、あとは経過観察ということでほっとして退院しました。

息子のために準備した名前とおくるみと肌着
つれあいは男の子ができたことがとにかく嬉しくて嬉しくて、ものすごい張り切りようでした。
絶対に最高の運勢の名前にするんだ、と言って毎日毎日名付け辞典やらネットの姓名判断で名前を調べ続けていました。
漢字一文字で13画の字から選ぶことにした、これが候補だから、この中からいいと思うものをいくつか選んでみて、といいます。
選んだ中から最終的に決めたのは、黎(れい)という名前でした。
私は私で、おくるみを作り始めました。
当時はキルトが大好きで色々作っていたので、おくるみの大きさを決めてごくごく単純なパターンを書き、手持ちのお気に入りの生地を使って作りました。
1か所だけ、お誕生日の日付の刺繍をするつもりでキルティングをしない部分を残しておきました。
おくるみができると勢いがついて、ついでに肌着も作っちゃおう、とブルーとイエローの肌着を作成。
ひもやスナップもばっちりつけて、おおー私なかなかやるじゃんとニヤニヤ。へへへ…
そんなことをしているうちに、黎は順調に大きくなり、腹水は消えていきました。
夫が不在でストレスがたまりまくっていた私
いったんは心配な時期を通り過ぎたものの、また腹水が溜まるんじゃないか?と怯えながら暮らしていたわたし。
もともとすごーく心配症なんです。
いつもなら帰宅した夫が受け止めてくれる不安も、なかなか素直に話せる相手がいませんでした。
夫は長期出張、実家の母に話す気にはなれず、妊婦仲間という人もおらず、時々病院に送り迎えしてくれた友人は妊活中。
愚痴を聞いてもらうことができないまま悶々として過ごしてました。
週末夫に電話すると、東京の研修で久しぶりに会った同期と楽しく飲み会をしているといいます。
こちらにいる間色々私を気づかってくれた夫には楽しい時間が必要かもしれないと思い、できるだけ愚痴を言わないようにしていました。
モヤっとした不安と、自分の体や赤ちゃんにどこまで気をつかって生活すればいいかわからないという心配が私の心にべったり貼りついて取れない感じで…
すごくストレスがたまっていたなぁと思います。
しばらく胎動ないけど受診どうしよう?
つれあいは長期出張し、数か月は帰ってこない予定でした。
ふつうそういう時は大体みんな実家に帰ると思いますが、私は実家に帰りたくありませんでした。
親との生活についてはこちらに詳しく書きましたが→ダメ出しばかりの親。食事でもテレビ見ても団らんはない家族。ラジオだけが救いだった
わたしにとって実家は居心地のいい場所ではなかったのです。
ですから、一度入院したことを理由に実家には帰らないことにして社宅で過ごしました。
実家は東北で九州からはかなり遠く、実際に自分が一人で飛行機・電車を乗り継いで移動することには不安もありましたし。
だからその夜も、一人でした。
ご飯を食べて、お風呂にも入ってくつろいで、テレビを見ていた時。
ふと、あれ?なんかしばらく動いてないな、と思ったんです。
胎動を経験したことのある方はわかると思いますが、
アイテテテというくらい良く動くこともあれば、しばらく動かなくて、大丈夫かな?と不安になることもありますよね。
午後10時過ぎだったと思います。これから病院にいくか、どうするか迷いました。
大学病院なので必ず宿直の先生が2人以上いて、夜中の緊急事態でも対応できることは知っていました。
でも夜に苦手な運転を1時間以上して、病院で見てもらう必要があるだろうか…?
迷いました。迷って、結局「明日の朝行こう」と決めて、その夜はちょっと不安なまま寝ました。
多分一生後悔し続けるであろう判断でした。
病院に着いたら心音が聞こえなかった
次の日の受診の時に、わかってしまいました。
妊婦健診では必ず胎児の心音チェックをします。
それが聞こえないのです。
いつもはちょっと機械を当てれば大きな音で聞こえていたドクンドクンという規則正しい音。
私のお腹に機械をあてても、何の音も拾ってくれません。
看護師さんは、センサーを当てる場所を何度も何度も変えて、試してくれます。
でも…黎の心臓は、もう動いていませんでした。
その日は土曜日でした。
私の処置は月曜日になってから行うと言われ、土日を多分ぼーっとして過ごしたんだと思います。
駆けつけてくれた友達に「赤ちゃん、死んじゃった…」と言うのが精一杯だったことだけ、覚えています。
お腹にはまだ黎がいるのに、もう生きていないということが不思議で仕方なく、ずっとお腹をさすっていました。
つれあいにはどう伝えたのか、いつ戻ってきてくれたのかさっぱり思い出せないのですが、多分すぐ休暇をとって駆けつけてくれたのでしょう。
月曜日から始まった私のお産にずっと付き添ってくれましたから。妊娠30週に入ったところでした。
死んでる子どもを自分で生むのが死産だと知った4日間
1日目
月曜日の朝、私の部屋にずらーっと研究室の学生さん、研修医、担当医などが勢ぞろいしました。
大学病院なので、私は胎児死亡の告知を受ける場面の学習?機会を提供したわけです。
そこで正式に「子宮内で胎児が死亡したことを確認しました。今日から出産の準備を行います。」と告げられて、頭が真っ白になりました。
子供が死んでいるのに、手術で取り出してくれるのではないの?
妊娠12週以降に子宮の中で胎児が亡くなると、人工的に陣痛を起こして「出産」しなければならない。我が子を亡くした悲しみと激痛に耐えながら出産しても、戸籍にすら載せてもらえない。それが死産だ。
↑これは、「赤ちゃん50人に1人が「死産」。家族を癒したJALのサービスはこうして生まれた」のハフポストの記事からとった一節です。
先生、どうしても分娩しなくてはいけないんでしょうか。
そうですね。それが母体にとって一番いい方法なんです。
実際にこんなやり取りをしました。聞かずにはいられなかったんです。
だって…ありえなくないですか?赤ちゃんは死んでるのに!
生みの苦しみだけを味わえって…残酷すぎます。
真面目な学生だったわたしは保健体育の授業もちゃんと聞いていましたし、妊娠してからも妊娠・出産に関する本を何冊か読みました。
でもそんなことが書いてあった記憶はないです。
「死産」ということ自体考えたことがなかっただけかもしれませんが、自分が経験するまでこのことを知りませんでした。
告知の直後から、陣痛を起こすための点滴が始まりました。
子宮の筋肉を収縮させるための点滴で、筋肉だけが反応してポコポコとお腹がうごいてきました。
でも、痛みは全くありません。その日点滴は、夕方4時まで続きました。
2日目
火曜日の朝8時から夕方4時まで陣痛促進剤の点滴、おなかがポコポコするだけで痛みはなし。
3日目
水曜日も朝8時から夕方4時まで陣痛促進剤の点滴です。
おなかがポコポコするとき、かすかに痛みがあるような、ないような…
点滴のあと、夕方子宮口を広げる処置が行われました。
水分を含むと膨らむ棒状の素材をできるだけ沢山詰め込んで、広げるのです。
カーテンの向こうで担当医が学生に解説しています。
最初はここ、次はこのあたり、などなど…
またもや貴重な学びの機会を提供してしまいました。
4日目
木曜日も朝から点滴。昼過ぎだったでしょうか、ようやく陣痛が始まりました。
腰の後ろから、金づちでガンガン骨を叩かれているような、そんな痛みに耐えて6時間。
ひ、ひ、ふーとか全然してられませんでした。
ぅぅぅうううあああーっ、いだいよいだいよぉーーとうめくのが精一杯。
なんかうんちがしたくなった、といって陣痛の合間につれあいにつかまり、病室内のトイレに行った時、ばちゃーん!と破水しました。
「破水したー!」
と叫ぶと、つれあいが先生を呼びに行ってくれ、戻ってきました。
トイレから移動して分娩台に上るように言われるのですが、つれあいの手を借りてもうまくいかず、もういきみたくて仕方ありません。
思わずつれあいにつかまっていきみそうになると「何やってんですか!早く乗ってください!!」と叱られ
分娩台でいきみそうになると「まだまだ、ダメダメ、早い早い!!」とダメ出しされ
いきんでくれというから頑張ると「こらぁ!お尻が逃げてる!!この位置で!!!」と言われ
こんなに叱られ続けるのが、お産だったのか…と悟ったころ、ようやく生まれました。
普通のお産と違うところは、子供の産声が聞こえないことと「おめでとうございます」の言葉がないことです。
でもそれはのちに改めて出産したからこそ知ったことです。初めてのお産だった私は、気づいていませんでした。
続きはこちらです→死産で生まれた息子と対面!解剖と火葬、その後の供養とお墓に納めるまで
娘よ、続きもきちんと読んでおくれ~。