
目次
前回の投稿→原因はストレス?羊水検査?兆候なく突然妊娠30週で死産した私の体験談では、分娩の終了までをお伝えしました。
今回は息子と対面した時のこと、解剖と火葬、その後の供養とお墓に納めるまでの話です。
長女の中学校の林間学校でキャンプファイヤー後に渡す親の手紙の内容を考えたのがきっかけで、この記事を書いています。
仏壇の透明な位牌がお兄ちゃんだと知っていてもなかなか聞きにくいでしょうから。
お産を終えた私がドクターにお願いしたこと
やっと生まれたと思ったら、息子はすぐにどこかへ連れ去られてしまいました。
「先生、子供に会いたいです」と言っても「後産がおわってからの状態次第だね。」と言われ、取り合ってもらえません。
なかなか後産が始まらず、男の先生の拳でグリグリお腹を押されて、イテテテテテテと悶絶。やっと胎盤などが出てきました。
私は胎盤の一部が子宮の内壁に癒着していたらしいのです。
超音波プローブをお腹に当てながら器具で子宮内の遺物を取り除かれ、ようやくお産が終わりました。
しばらく休憩し、分娩台からベッドに組み替えられた台で会陰の裂傷を縫合してもらっている時。
ふと、こういう状況になった時言えたら面白いなと思っていた言葉を思い出しました。
「先生、きつめに縫ってくださいね」
先生は「ハハハ」と笑っていただけでしたが、看護師さんが「こんな時にそんなこと」といって泣きながら笑っていたのを思い出します。
自分で言うのもなんですが、私は普段まじめな人間で下ネタを自分から口に出すことはありません。
多分、必死だったんだと思います。息子に会いたくて。
母親が取り乱していたら、落ち込みすぎていたら、会わせてもらえないんじゃないか。
冗談を言えるところを見せたら私は大丈夫と思ってもらえる。きっとすぐ会わせてくれるはず。
そんな気持ちが、まさか自分が言うはずのない言葉をするりと出してしまったのではないかと。
人間て不思議なものですね。これ以上悲しいことはないという場面で、あんな言葉が出るなんて…
「自分で自分をほめてあげたい」という言葉がありましたが、私の人生ではあの状況が思い浮かびます。
ようやく息子を抱っこ
またしばらく台の上で横になっていると、ようやく、息子を連れてきてくれるといいます。
やっと!やっと会える…
起き上がって待っていたら、看護師さんが、何だかガサガサしたものを運んできます。
息子は防水シートにくるまれていて、そのまま渡されました。
そっと指先で顔に触れてみましたが、ふにゃりと柔らかくて、ああ、もう直接抱っこするのは無理なんだな、とわかりました。
6日間も私のお腹の中にいたので、仕方がないことです。
ですがあの時、息子を直接抱きしめたかったです。
産んですぐに抱っこして、その体温のあたたかさを感じたかった…
指先で感じた温度は、むしろちょっぴり冷たく、当たり前なのですが生きている人間の温度ではありませんでした。
つれあいも息子を抱っこしました。
待望の男の子。一生懸命名前を考えて、会えるのをずっと楽しみにしていたのに、こんな結果になってしまって…
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
「お前のせいじゃない」と言ってくれるし、本心からそう言ってくれていることはわかるのですが、それでも、やっぱり。
彼は泣いていました。泣き顔を見るのは初めてでした。
「俺は人前では絶対泣かない主義だけど、今日だけは泣く。でももう何があっても人前では泣かないけどな。」と言って、声を抑えながら泣いていました。
彼は以前から、仲良しだった職場の同僚が亡くなった時でさえも涙を見せない人でした。
泣いている姿を見たのは本当にあの時だけです。その後彼の両親が亡くなったときも、宣言どおり涙は見せませんでした。
息子の写真
つれあいに「息子を抱っこしている写真を撮ってほしい」と頼んだのですが、二人とも泣いてしまってどうにも写真が撮れないのです。
せめて一枚だけでも息子の写真が欲しくて、息子だけでも撮ってほしいと言ったのですが、彼には無理でした。
看護師さんに撮影をお願いしましたが、やっぱり泣いてしまって手元が定まりません。
それでもどうにかシャッターを押してくれたので、辛いことをお願いして申し訳なかったけれど、本当に感謝しています。
当時はまだデジカメではなくフィルムカメラだったのですが、現像してみたらブレブレで、全体にぼやけていました。
それでよかったと思っています。
本当にリアルな姿が残っていたら、もう一度その写真を見ようとは思わなかったかもしれません。
数年前に一度取り出して、ちらっと見てみました。今もどこかにあると思いますが、取り出して見ようとは思いません。
私の頭の中にある姿だけで、充分です。
つれあいはとても写真を撮るのが好きで、なんでそんなに写真撮るのと私が呆れるくらい、結婚前からしょっちゅう写真を撮っていました。
↓こちらの記事に詳しいです。
でも、息子のことがあってからは、一切写真を撮らなくなりました。
運動会などのイベントでは、頼めば撮ってくれます。
でも私が頼まなければ、一切写真を撮ろうとしません。
子供の様子をスマホで撮影することさえありません。
彼の中では、あの時息子を撮れなかった時のまま、カメラを持つ気がなくなってしまったようです。
赤ちゃんの声が聞こえる病室で
子供が亡くなっていることは、当然他の患者さんにはわからないことです。
産婦人科の病棟でしたから、婦人科系の病気で入院されている方もおられました。
そういう方のお部屋はドアやカーテンが閉まっているので気になりません。
でも赤ちゃんが生まれるのを待っている人や生まれたばかりの人のお部屋はおしゃべりの声でにぎやかでした。
母子同室の病院で、いつも赤ちゃんの泣き声が聞こえていました。
私の部屋は確かにそこしかなかろうという病棟の一番端っこの個室で、ちょっと寂しい部屋。
向かい側のお部屋にしか赤ちゃんがいません。
それでも、診察に向かう時通る部屋には赤ちゃんがいて、目が合ったお母さんたちはみんな笑顔を返してくれます。
こちらも一生懸命笑顔(のつもり)で応えます。それが辛かったです。
幸い話しかけられることはなく入院は終わりました。院側でも気を遣ってくれたのだろうと思います。
出産の3日後に息子の火葬に立ち会った
実は「解剖を希望されますか」と医師から尋ねられ、私たちはお願いしました。
息子がなぜ亡くなったのか知りたかったのです。結局原因はわかりませんでした。
解剖が終わって息子と再び会うことができたのは、出産の2日後の夜。
つれあいが手配してくれた棺に入って、霊安室に安置されていました。
大人の棺用の大きな冷蔵庫の中にポツンと小さな箱が置かれ、水分がぬけて普通の赤ちゃんの大きさになった息子が小さく、静かに横たわっていました。
胸には肋骨の間に縦に解剖の傷の縫合跡がありました。大人の体で考えると鎖骨の下あたりからおへそぐらいまである大きな傷…
頭を、そおっとなでてあげたと思います。傷にもさわって、がんばったねと言ってあげました。
翌日、息子を火葬にしました。
当時の私たちに法要をどうするべきかという知識はなく、最初夫は葬儀をするつもりで色々調べてくれました。
しかし私はとても普通の法要に立ち会う気力がなく、お葬式はいらないと夫に伝えました。
誰にも会いたくありませんでした。
病院に送り迎えしてくれた友人にさえ、会う気になれませんでした。
今でこそ一般的ですが、あの時はいわゆる「直葬」を行ったのだと思います(すいません、当時のことをよく覚えていないのです)。
夫が役場に死亡届を出して火葬許可証をもらってきて、私は外出許可をもらい葬儀場に行きました。
祭壇もなにもない真っ白な台のうえに息子の小さな棺だけがポツンと置かれていて、私たち夫婦のほかは誰もいませんでした。
あのときちゃんとお葬式をしなかったことがよかったのか悪かったのかはわかりません。
でもあのとき自分にできる精一杯のことはしました。
箱の中にお花を沢山入れて、自分で作ったブルーの産着を箱の上からかけてあげて焼香し、送り出しました。
産着を作っておいてよかった、こんな使い方は思いつかなかったけど…
息子のためだけにしてあげられたことがあって、本当によかったと思ったことを覚えています。
拾ったお骨を入れた小さな骨壺は、おくるみにくるんで病室に持ち帰りました。
おくるみは今も手元にありますが、息子が産まれた日付を刺繍するはずだったところは手を付けないままになっています。
社宅に戻って
出産の5日後。お骨を抱いて車で社宅に戻った時、不思議な光景を見ました。
その日はとても気持ちよく晴れた日で、いつもの通り、沢山の子供たちが社宅の周りで遊んでいました。
その様子を見た時に、どの子供の体からも、後光が差しているように見えるのです。
何というか、体の輪郭がぽわーんと光っている感じです。
子供の存在が今の自分には眩しすぎるってことかな?それとも、私が今生と死の境目みたいなところにいるんだろうか…とても不思議でした。
その後どう過ごしていたか思い出せませんが、しばらくはテーブルの上に骨壺を置いて暮らしていました。
お墓を持たなかった私たちは、数か月たってから主人の実家のある東京のお寺にお骨を預けることを決めました。
戒名を自分たちでつけてお骨を預けた
寂しいけれど、区切りをつけて再出発しなくてはいけないと思いました。
出発の日、お骨を抱えて、空港のエスカレーターに乗っていた時のこと。
反対側のエスカレーターから降りてくるのは、なんと息子をとり上げてくれた先生でした。
先生に見送られて(?)お骨を預けてきたのですが、戒名は自分たちでつけました。
最初、つれあいの実家にゆかりのあるお寺に依頼したら断られたのです。
そこで調べてみると、戒名はお坊さんに付けてもらわなくてはいけない決まりはないんですね。
息子には黎という名前を付けていたので、それを戒名にだけは残したかったのです。
お腹の中で死んでしまった子供は、公式な記録には「死胎児」としてしか残りません。
胎児なので生まれていない人として扱われ、もちろん戸籍にも記載されません。
だから私たちは自分たちで息子の戒名をつけお寺に預けました。
その後つれあいの父親が亡くなったとき、黎のお骨もお墓に一緒に納めました。
(お葬式の前に喪主がやらなくてはいけないあれこれに書いたので、よかったら読んでみてください)
今我が家の小さな仏壇には彼の透明な位牌があって、子供たちも「お兄ちゃんのだよね」と話しています。
子どもたちに伝えたいこと
東日本大震災のとき、テレビで新聞で、沢山の被災者の方たちの様子が報道されましたね。
絶望的な状況から立ち上がり前進してゆく姿に胸打たれた方も多かったと思います。
そうだよね、なんか不思議な力が出るんだよねと、テレビを見ながら自分の死産の経験を思い出さずにはいられなかったです。
子供を亡くすまで、人生には思いもよらない悲しい出来事があるなんて想像したこともありませんでした。
当たり前に手に入れられるはずのもの、そこに存在して当然のものがある日突然なくなる、そういうことってたまーに起きるんです。
だからこそ、娘たちに伝えたいと思ってこの記事を書きました。
自分が存在して、呼吸して、話して食べて泣いたり笑ったりしている。
かっこよくなくても、不器用でも、とにかく生きていることがまず、奇跡であると知ってほしい。
普段はそういう風に思えないでしょうけれど、母がそんなこと言ってたかな?ってたまーに思い出してほしい。心から、そう思います。
そして、私自身は読む勇気がまだないんですが、娘がもう少し大きくなったらこの本を勧めてみようと思ってます。
色々な理由で生まれてくることができない赤ちゃんたちがいることを知ってほしいから。
喜びの影には悲しみもあるかもしれないと、想像できる人になってほしいから。
今日も生きていることに感謝!
そして母親は、今日も生きてる人のためにごはんを作ります(笑)
ごはんのあとにまた別の記事を読んでいただけると嬉しいです。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。