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「サティシュの学校」というドキュメンタリー映画を見る会に参加したんです。
世界中から生徒が集まる教育ってどんな風に行われているんでしょうか?
実際にその学校に留学したサトケンさんからお話を聞きました。
今日は「サティシュの学校」という映画とサトケンさんの体験をもとに以下の紹介をします。
- そもそも教育って何をすること?
- サティシュ・クマールさんの「教育とは引き出すこと」という言葉の意味
- 映画で紹介されているシューマッハー校の概要と、実際の学校生活
もっと早く、子どもの不登校で悩んでいたときに知りたかった映画です。
あの時この映画を見たら「少しゆっくり子供を見守ろう」「毎日の生活を丁寧に味わおう」って思えたんじゃないかと思います。
そもそも教育って何をすること?
今回改めて「教育」って何をすることなんだろう?
という疑問が自分の中に浮かんできたので語源や定義を調べてみました。
「教育」の語源は?
「英語: education」や「フランス語: éducation」は、ラテン語: ducere(連れ出す・外に導き出す)という語に由来することから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」とする。
出典:wikipedia
このように、語源には「連れ出す・外に導き出す」という意味があるんですね。
「教育」の定義は?
教え育てること。知識,技術などを教え授けること。人を導いて善良な人間とすること。人間に内在する素質,能力を発展させ,これを助長する作用。人間を望ましい姿に変化させ,価値を実現させる活動。以上のように教育という語は多義に使用されるが,陶冶,教化,育成,形成などと同義にも用いられ,またそれらを総括する語として広義にも用いられる。(以下略)
「人間に内在する素質,能力を発展させ,これを助長する作用」との記述があります。
サティシュさんはこれが教育の本分だと主張します。
もともと言葉が生まれたときはそういう意味だったわけで、当然の主張ではないでしょうか。
『いま世界で「教育」といえば「空っぽの器に知識を詰め込むようなこと」が行われているが、本来の教育はそういうものではない。
ひとりの人間は一つの種のようなもの。
必要なものはすでにその人の中にあって、それぞれ全く違うものを持っている。
教育とはそれを引き出すことだ。』というのです。
サティシュの学校「シューマッハー校」はどんな教育が行われる場所?
まずはこちらをご覧いただくとイメージしやすいと思います。
サティシュさんの話を聞いているのは、辻信一さんという文化人類学の教授です。
以前からサティシュさんと親交があり、自分のゼミの学生たちと一緒にシューマッハー校に留学したこともあるようです。
シューマッハー校の概要は?
この学校はホリスティックなサイエンス、エコロジー、エコノミーを学ぶ場所。
ホリスティック教育とは、人はみな、地域や自然界との関わりを持ち、思いやりや平穏などの精神的価値観を追い求めることで、自己の存在証明、人生の目的や意味を見出していく考え方に基づいて行われる教育のことである。
出典:wikipedia
「ガイア理論」といって、地球を一つの生命体と捉える考え方があるそうです。
そのように地球にも人間に接するのと同じような態度で思いやりをもって接していくのが”ホリスティック”であるということ。
ですから行き過ぎた経済成長や環境破壊には否定的で、スモールでスローな経済学を打ち出したE.M.シューマッハーの名前をとって「シューマッハー校」と呼ばれています。
開設当初は私設の学校だったようですが、今ではきちんと大学院として認可された学校です。
サティシュさんはそこで「リサージェンス(Resurgence)」という雑誌を刊行しています。
2016年にリサージェンス誌が50歳の誕生日を迎えましたが、その際はチャールズ皇太子からお祝いのビデオメッセージが寄せられたとか!
非常に権威ある研究誌として認められているのですね。
世界は広いなぁ~こんなに居心地がよさそうで素敵な学校があるなんて!と感激しますよ、DVDを見ると。
↓ご興味ある方はこちらからどうぞ。
シューマッハー校の学校生活とは?
具体的にはどんな風にその人が持っているものを「引き出す」教育が行われているのでしょうか?
映画には詳しく写っていない部分を留学されたサトケンさんが教えてくれました。
「サティシュの学校」の一日
朝は7時ごろから瞑想の時間。皆が集まって座れる集会室のような場所で思い思いに瞑想をします。
朝食はバイキング形式で、体が必要としているものを必要なだけ摂ります。
その後詩の朗読や歌を歌う時間があり、みんなで掃除、農業、昼食の準備をしてそのあとがようやく午前のクラス。
授業といってもサティシュさんやその日の講師を囲んで椅子に座り、話を聞いたりディスカッションをします。
机はないんだそうです。映画でもみんな居心地のよさそうなソファやベンチに座ってくつろいでいました。
講師の講義もありますが、学校で学ぶことは学生自身が決めます。
皆でランチを食べたあとは午後のクラス。夕食の支度はみんなでします。
サティシュさんも少なくとも週に1回は料理をするそうです。
自分がそこにいるだけで存在を認められる場所を提供する。
そして居心地の良い場所をみんなで作る。
だからこそ素晴らしい研究ができる。
それがサティシュさんが創った教育の場です。
自分がそこにいるだけで存在を認められる場所を提供する。
これって…
不登校の子供がいちばん求めていることじゃないでしょうか。
学校がそういう場所じゃないから不登校になっているわけで、せめて家庭は「自分がそこにいるだけで存在を認められる場所」でありたいと強く思いました。
これは子どもだけじゃなくて、母親であり社会人である私にもあてはまるし、他のどんな人にもあてはまることかもしれませんね。
まとめ
もともと僧侶だったところから平和運動に参加するため還俗したサティシュさん。
彼の行動も言葉も熱く胸に迫るものがあって、つい引き込まれてしまいます。
この映画をどうして子供の不登校の時知りたかったかという理由を書いていませんでしたね。
不登校って、子供や親に何か欠けているから学校に行けなくなるイメージがありませんか?
たとえば授業中座っていられないというのは、忍耐力の不足と捉えることもできます。
でもサティシュさんの言葉を知っていたら、「子供に忍耐力をつけさせなくては」と足りないものに目を向けるんじゃなく
「この子に備わっているものを引き出せていないだけだ。今のこの子を受け入れてくれる場所に行こう」と考えることができたかもと思います。
欠けているものを埋めるとか、今までにないスキルを身につけるのって大変です。
不登校っていう充分に重たい現実があるときに、自分を変えていくとかスキルを身につけるのはしんどすぎます。
それに「子どもに何かが欠けている」と考えると「母親として何かが欠けている子どもを育ててしまった」ことになります。
結局は自分で自分を批判することになるんです。
自分を責めても、まあ大体状況は悪くなるだけです。
映画をみてほっとしたんですよね。
ゆっくりでもちゃんと愛情を通わせられる親子になるのが大事で
自分が持っているものをちゃんと引き出して誰かの役に立てることが大事
自分が生きたい人生を生きられる人になることが大事じゃないかな~って。
安心して帰れる「親子関係」という名の基地ができたら、子供は学校に行く勇気を持てます。
それは自分が経験したことなので間違いないです。
たまたま自分は森田先生のコンプリメントでそれを経験しましたが、この映画も言ってることは同じでした。
だから不登校で悩んでるときに見たかったなぁと思いました。
今日も最後までお付き合いくださってありがとうございます。