
目次
私、ラジオを聴くのが楽しみだったんですが、ある時ラジカセがボコボコに・・・!
親はいつも私にダメ出しばかり。ちゃぶ台囲んで家族団らん、ていう家族の姿に憧れた日々でした。
なんでこんな親のところに生まれちゃったんだろう、って思ったことありませんか?ない人は幸せですね。
私は「親に感謝しよう」って学校で言われても絶対感謝なんかできない、って思ってました。
本人たちに悪意はありません。世間的にも一応まともです。
でも、真面目すぎることがあらゆる面で裏目に出ている両親です。
親からはダメ出しばかり
わたしはかなり優等生でした。
成績はほぼ5で、4が一つ二つあるくらい。でも全然親は喜んでくれなかった。
喜んでいたのかもしれないけど、子どもの私には全然喜んでるように見えなかった(笑)
毎回父も母も「おお、がんばったな~」の一言でおしまい。スポーツの大会で入賞しても同じ反応です。
「すごいねー!優勝おめでとう!!みんなでお祝いしよう。今日何食べる?」みたいなのは一切ありません。
あまり褒められた記憶がないです。
親から言われたことで覚えてるのは漫画もアニメもスナック菓子も炭酸飲料も禁止、髪の毛はもっと短く切れ、もっと家の手伝いをしろ、遊びに行ったら時間通りに帰ってこいとかダメ出しばかり。
さらにテレビもすごく制限されていて、両親がNHKと民放時代劇しか見ない、そして子供にも見せてくれない家でした。
今みたいに動画なんてないから、テレビが娯楽の中心です。
当時大人気だったドリフターズも風雲たけし城もくだらないから見るなと禁止。
ベストテンもタッチもガンダムも見れなくて、アイドルも顔は雑誌で見れても振付けがわからなかった。
皆の輪に入れなくて、毎日つまんなくて…
どうして親は私なんかつくったんだろう、私生まれてこなくてよかったのに、って本気で思ってました。
ちなみに今、世代的に当然知ってるよねっていうギャグとか振られても反応できないです^ ^
その時だけは帰国子女の気持ちがわかります。
あたたかな家族のだんらんに憧れた
中学生の頃の生活は、18:30から夕食開始。19:00NHKニュース。20:00には入浴して21:00には就寝。こんな感じでした。
家族で何か話す時間は、夕食の間か食後に茶の間でニュースを見ている時間です。
両親は共働きで忙しかったから、その時間が業務連絡時間みたいになっていました。
言い合いになり、怒鳴りあいの喧嘩になることもよくありました。
「離婚だ!離婚」という言葉が家の中を飛び交い、喧嘩になっていない時でも、何かというと言葉の端々に相手への嫌味がにじむような、そんな会話が交わされている家だったんです。
そういう家で、家族みんなでわっはっは笑って盛り上がる機会は、たまにマッチ棒を賭けてやるトランプくらい。
ドラマの中で見るような団らんなんて、うちにはなかったです。
食卓には笑いはほぼなくて、何か苦手な食べ物があっても残すとメチャクチャ怒られるから飲み込んでました。
親から責められずに楽しめるのがラジオだった
ラジオを聴き始めたのは、ラジオだけは親から責められずに楽しめたから。
夜10時から「三宅裕司のヤングパラダイス」を聞くのが楽しくて。(youtubeに音源がアップされていました。なつかしー)。
三宅さんが担当だったのは、1984年2月から1990年の番組終了まで。中学生の間はずっとお世話になっていました。
とにかく楽しくて面白くて、お布団の中で沢山笑いました。夜11時半ごろまで聞いていました。
寺脇康文さんや岸谷五朗さんも、三宅さんの劇団SETの新人で番組に出演していたそうです。全然知らなかったー!
ラジオで聞く団らんがヤンパラ
you tube の音源を聴きながら、ちょっと考えました。
当時は吉田照美さんとか赤坂康彦さんとか、小林克也さんなどが番組を持っていましたが、やっぱりヤンパラがよかったんです。
たぶん、理由のひとつは中学生や高校生が友達と一緒に生電話で番組に出演していたこと。
我が家の門限は塾帰りでも中学生8時、高校生9時で友達の家に泊まりに行くのも禁止でした。
「平日の夜11時に友達とラジオ番組に出演している」という状況そのものがうらやましくて。
毎日毎日、自分もこんなことしてみたいな~ってホントに思ってました。
一番大きな理由は仲間でワイワイ盛り上がっていたことですね。
三宅さんと小倉さんの関係の温かさ、そして他の劇団員も巻き込んでみんなで盛り上がっているところがよくて。
うちには団らんなんてないから、毎日毎日しょーもないことでよくそこまで盛り上がれるなと思うんですよ。
でもみんなで一緒に笑っている、そういう温かな雰囲気がとても好きでした。
ラジカセで音楽を聴いて友達と盛り上がりたくて
ヤンパラを聴いて、ラジオ番組に投稿する人がいることや、流れる音楽には流行りの曲がたくさんあることにも気が付きました。
当時民放テレビを全然見せてもらえず、皆の話に入れなくて寂しい思いをしていた私は、ひらめきました!
そうか、振り付けとか衣装とかはわからないけど、ラジオで聴けば、皆が話している流行りの曲の音楽だけは覚えられるな~と思ったんです。
親からラジカセを借り、というかラジカセを勝手に自分のもののようにして、好きな曲を録音して繰り返し聴きはじめました。
ある日突然、目の前でラジカセが…
当時の私の部屋は茶の間の隣で、部屋の間はふすまで仕切られているだけでした。
父が「ラジカセの音がうるさい」と言うのでヘッドセットを使っていましたが、母は「ヘッドセットを使っていると耳が悪くなるから使うな」と言います。
母は耳を患って入院したこともあるので、母に耳のことを言われるとその通りにするしかありませんでした。
父に嫌がられていることはわかっていましたが、音を出して聴いていました。
すると、「うるさい」と注意されます。毎日がその繰り返しです。
ある日、父が茶の間にいてテレビを見ていない時間に結構大きめの音で音楽を聞いていました。
「うるさいぞ、ラジカセもってこい!」という声がかかりました。
持っていくと、父がいきなりラジカセのスピーカーに拳を叩きつけたのです。
ばきぃーんと音がして、プラスチックの破片が二三個飛び、さっきまでラジカセだったものが無残にひしゃげていました。
父は何も言いませんでした。私はその時どうしたのか、思い出せません。。
今考えると、父と母の対応がちぐはぐだったこともラジオがボコられる原因になってますよね。
ほんと、家庭内の意見の不一致は多かったです。
子どもの行動を制限する部分だけは一致してたから、締め付けが厳しい生活になってたんだと思います。やれやれ。
結局親の意見の食い違いで割をくうのは子どもってことです。ほんとに嫌になります。
結局ラジカセを自分で買った
目の前でラジカセを壊されて、私は本当にショックでした。
すぐ買おうと決めました。
そのためにまず親に謝り、高校受験もあるから茶の間のテレビの音を気にせず勉強したいと言って、部屋を2階にしてもらいました。
勉強を理由にすると大抵の希望は通ったのです。ほんとにおかしな家です。
願いが聞き届けられて2階の部屋を手に入れた私。ラジカセも、自分の好きなものを買えたんです!
今はあの経験が必要だったんだと思えるようになりましたが、厳しすぎる親のしつけとその方針の不一致は迷惑でしかなかったです。
こうして私は、次第に音楽を聴くことにのめりこんでゆきます。
続きはまた改めて。
今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。