
目次
前回は、父の病気を家族が真正面から受け止められるようになるまでの過程を書きました。
こちらです→100人に1人がかかる病気 統合失調症が父のもとにやってきた日
なぜ統合失調症が父のもとにやってきたのか、当時はついその原因を考えてしまう自分がいました。
治療を受けるまでのことや、私が考える原因、その後の父がこれまでどのように過ごしてきたかも含め、ご紹介します。
6人兄弟の「兄貴」を救いたくて
職場に戻った私は、とにかく父に受診してもらうにはどうしたらいいか、考え続けました。
その中でふと気づいたのは、母は自分の兄弟や親戚の叔父など、自分が相談しやすい人にはすでに相談していましたが、父の兄弟たちには状況を知らせていない、ということ。
父は上が男3人、下が女3人の6人兄弟の長男で、一人だけ「兄貴」と呼ばれていました。
隣県の大学を卒業後、実家にもどって教師になり両親と家を引き受けたのですが、相続の際に兄弟たちはみな「遺留分の放棄(一定の相続人にのみ認められている、法律上取得することが保障されている遺産の割合の放棄。必ずもらえるはずの遺産をもらわないこと)」に快く応じてくれたと聞いていますし、「兄貴」の一声で兄弟が集まったりと、とにかく父が尊敬されている様子は小さい頃から感じていました。
どうしてなのか、兄弟の一番下のおばに尋ねたことがあります。
「みんなねぇ、兄貴に育ててもらったんだよ。下の3人は特にね、学校におんぶされていったり、いろいろ面倒見てもらったからね。」と言っていました。
父の両親は2人とも教師で、祖母は仕事のほか学習塾を開き、祖父は習字を教えていました。
そうして6人のうち5人まで大学を卒業させたのですから、その努力は並大抵のものではなかったでしょう。
そういう親を支えて兄弟たちの面倒をみたのが、父と、二つ下のおじだったようです。
父の兄弟たちに状況を知らせて、父に会いに行ってもらおう。そして、何とか病気の治療ができるように協力してもらおう、と思いました。
おじやおばの家には、それぞれ1回位は泊まりに行ったこともありましたから、私が突然電話しても何とかなりそうです。
母にも連絡をとって、まずは父の兄弟に了解を得てから病院に連れていこう、と念を押しておきました。
父の状況を知っておいてもらわないと、治療後に父がどうなってしまうか想像もつかないので、「兄貴を勝手に病院送りにした」と言われることは避けたかったのです。
そしてすぐにおじの一人に電話をかけ、父の状況を説明して、東京にいる兄弟が集まる機会を作ってほしいと一生懸命頼みました。
おじは最初、父の様子を聞いても信じられないといった様子で戸惑っていましたが、東京にいる兄弟4人が集まる機会をつくる、という約束はしてくれました。
ようやく、病院へ
結局父の兄弟が集まり、私の話を聞いてもらうまでに、2か月ほどかかりました。
今考えてみると、皆忙しい中、大学を卒業したての姪っ子一人の呼びかけに、よくぞ応えてくれたものと思います。
私は週末に東京まで出向き、父のことをみんなの前で話して(包丁の件だけは、伏せておきましたが)、どうかすぐにでも実家に行って、父の様子を確かめてほしい、どうしても病院で治療を受けさせたいと必死で訴えました。
私が涙をこらえつつ話をしているのを見て「そんなに思い詰めることはない、近いうちに誰か様子を見に行くから。」とおじやおばが口々に慰めてくれるのですが、「わかった、すぐ行く。」と言ってもらえないもどかしさに、私は自分の力のなさを感じずにはいられませんでした。
その後1月ほど経ったころでしょうか、東京のおばの一人から、「父の様子を見に行ってきて、状況はわかった。他の兄弟も、治療の件を了解している。」との連絡がありました。
これからのことを色々考えて、次の週末に母に連絡をとってみると、何と父は、すでに病院に運ばれていました。
あんなに抵抗していた父を、どうやって連れて行ったのかと聞くと「東京のおばが帰ってから、もう一度最近の状況を病院に行って話したところ、措置入院ということになった。病院から何人か人が来て、注射を打って連れて行った」というではありませんか。
おそらく包丁の件が決め手になったのでしょう。
「措置入院」というものの存在を、その時初めて知りました。
相模原の障害者施設襲撃事件の被告が事件を起こす前に措置入院をしていたことから、この言葉をご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんね。(参考:精神保健福祉法の知識)
父が本人の意思に反して無理やり病院に連れていかれたこと、家族としてむしろそれを望んだことへの罪悪感は、当時はもちろん、今もあります。
ですが、あの時の状況を考えると、仕方のないことだったとも思うのです。
私の家は、その頃父と母だけで暮らしていましたが、明らかに二人にとっての牢獄となっていました。
母は当時仕事をしており、「仕事があってよかった。そのおかげで自分を保っていられる。」としみじみと語っていましたけれど、庭に出て叫ぶ父や、一緒に外出しても「誰かが俺を監視しているから、店には入れない」と言って大好きだったお蕎麦やさんにさえ頑として入ろうとしない父を、一人相手にするのはもう限界だっただろうと思います。
こうして父は、約2か月の入院生活に入ることになりました。
帰ってきた父、その後
退院した父に会いに、実家に帰った時のこと。
久しぶりに見る父の顔はとても穏やかでしたが、ほんの数か月の間に一気に10歳も年をとってしまったかのような変わりようでした。
まず、歩き方がおかしいのです。膝がカクカクと抜けるような、どうかすると転んでしまいそうな歩き方。
顔の肉が落ちたからなのか、表情に乏しく、以前と比べて声に力が感じられません。
母に尋ねると、薬の副作用でこうなってしまうようだと説明されました。
自分がどんな状態だったか、覚えているかと聞いてみると、「(庭で叫んだりしたことや、警察署に行ったりしたことを)覚えてる。なんであんなこと、したんだろうなあ。」といっていました。
久しぶりにみんなで蕎麦を食べに行こうという話になり、父がお店に入れるか心配しましたが、無事席について、食事をすることができました。
父と母と穏やかに話をしながらお蕎麦を食べるという、何とも平凡な家族の、ありふれた一コマでしたが、こういう時間を取り戻せたことの実感がないというか、不思議な感じさえしました。
ただ、向こうの人が俺をずっと見てるようだ、というようなことを口にすることもあり、病気は父の中に存在していて、おそらくずっと付き合っていかなくてはいけないのだな、ということもまた気づいたことでした。
1~2年ほどかけて、毎日犬の散歩をしたり、買い物をしたり、少しづつ車を運転したり、と徐々にできることの範囲を広げていき、海外旅行に一人で行ったりもするようになりました。
やはり時たま「見られている」ようなことを口にすることもありますし、年齢なりの衰えは当然ありますが、今年傘寿を迎え、元気に過ごしています。
日常の生活には、特に支障はないと母からも聞いています。
統合失調症が父のもとにやってきた理由
理由など考えても仕方がないとわかっていても、「どうして」父が統合失調症になってしまったのかと、今も考えずにはいられません。
↓こちらに、統合失調症の患者によく見られる性格などが記載されています。
性格は関係するの?〜よくみられる気質・性格があるといわれています〜
>内気でおとなしく、控えめ、神経質なところがあるかと思えば無頓着であったり、傷つきやすいなどの気質です。人と交わるのが苦手で、一人でいることを好む傾向もしばしば見られます。
これはまさに、父そのものです。
父はとても繊細な人で、自分の感情を表現するのが苦手です。そして、意志が強い人でもあります。
確か私が小さい頃は煙草を吸っていたな、と思い、ある時やめた理由を尋ねたことがあります。
「ちいせぇの(私と弟)が、けほけほするから。」
とだけ、答えてくれました。
かわいそうだと思って、という自分の気持ちを言葉にしないのです。
そして、学生時代からずっと吸っていた煙草を、あっさりとやめてしまう人なのです。
父は長男として家を継ぎ、親の面倒を見ると決めたことは、お伝えしましたよね。
自宅を新築した時には、庭いじりの大好きな祖父のためにと灯篭や飛び石、池には滝までしつらえて日本庭園を造りました。
結婚生活でも、感情が高ぶるとヒステリックにそれをぶつけてくる母を相手に、辛抱強く、時には「離婚だ、離婚!」と言いつつも、決してそれを実行しようとはしませんでした。
テニス部の顧問になればまじめに顧問を務め、休日にも漢籍を読むなど授業の準備らしきこともちゃんとして、晩酌もほどほど、週末には気晴らしに競馬をしますが、決して行き過ぎることはありません。
これは私の想像でしかないのですが、父はいつの間にか、自分自身の心の声に耳を傾けることを忘れ、周囲から期待される姿を自分の目標にしてしまったのではないでしょうか。
一度だけ、とても実感のこもった言葉を聞いたことがあります。
私が大学に進学し、アパートの部屋を借りて一人暮らしを始めようという時のことです。
この部屋にきめよう、という話をしていた時「うらやましいなあ。俺も、ここに住みたいよ。」と父がしみじみと言ったのです。
そんな風に父が自分の気持ちを率直に語ることは珍しかったので、そういう機会はなかったのかと聞きました。
すると、横浜の大学を受験するため親戚の家に泊めてもらったところ、そこでお酒を勧められて断れず、結局試験に合格できなかったというではありませんか。
なんじゃそりゃ!と思いましたが、実は私自身、おばの家から予備校の講習に通った時に同じように感じたことがあり「父は、断れなかったんだろうな。。」と、その気持ちはよくわかりました(笑)
不器用なんですね。
経済的にも、父の性格的にも難しかったかもしれませんが「長男だから家に戻らなくては」とか「子供がいるから離婚はできない」とか「突然進学校の授業をするのは大変すぎる」とか、世の中一般の常識から考えるとはみだしてしまう行為であっても、「自分がそう感じている」ということを、父が自分自身の中で認めていてくれたら。
そしてできれば、家族にだけでもそういうことを話していてくれたら。
父のもとに統合失調症はやってこなかったんじゃないか、とつい考えてしまいます。。。
自分が楽しいと思うことを、ちゃんと楽しめる人生を
なぜか父は、競馬が好きなのです。
私が物心ついたときから競馬新聞を愛読し、毎週日曜日は競馬中継をテレビで見たりラジオで聴いたりして、必ず馬券を買っていました。
ここ数年は、2か月に1回ほど上京して、場外馬券売り場に行き、1日競馬を楽しんでホテルに宿泊、翌日帰宅することが父の気晴らしになっています。
実は昨日も上京してきたのですが「これからwindsに行って13時から馬券を買うから」といって、上野で待ち合わせた私たちとの食事もそこそこに、新宿に行ってしまいました。
孫とおしゃべりするより競馬かよー!!とも思いますが、そういう気もちも抑え込んでいたのが父だ、と思うと、今は少しでも楽しいと思うことができているなら、いいのかなと思います。
馬というのは昔から、権力や男性の力の象徴として沢山の絵や文学の中に描かれていますし、特に、馬のいななく姿は男性の情欲や傲慢と結びつけられてきました。
父の中にも確かにそういう部分はあって、家族の前ではラジカセを壊したり、私に部活を辞めさせたりと時折顔を出すことがあります。
しかし30代に病気で入院し、出世の道が絶たれたと聞きましたし、統合失調症で退職まで勤め上げることができませんでした。
私にはその姿が、競馬場のサラブレッドが騎手に追い立てられて走り続け、途中で転んでレースをリタイアしまう時の姿と重なります。
ケガをした競走馬は、レースに復帰することはまずできません。ケガがひどいと安楽死が待っています。
でも人間には、自分の好きな場所で好きなことをやって生きていくことができるはず。
お気に入りの牧場を、毎日ゆっくり散歩する人生でも、いいと思うんです。
父は、自分の心に従って、本当にやりたいことをやって生きてきたのでしょうか。
両親や兄弟、パートナーや職場の人たちが「こうあってほしい」と望む姿へ向かって、必死に自分を追い立てたのではなかったか、と思えて仕方ないのです。
父はそう思っていないでしょうけれど、病気のおかげで父は、自分自身の気持ちと向き合う大きなチャンスをもらったとも言えます。
あれからもう四半世紀が経ってしまいました。
父が自分自身の人生を振り返る時「俺の人生も、まあ悪くなかったな」と思ってくれたらと願わずにはいられません。
今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。