コミュニケーション能力が低いと思ってた自分が本当に怖れていたもの

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東京ではこの2週間ほど、桜がとてもきれいでした。

毎年、桜を愛でる時間があるのって、素晴らしいですよね。

私は、実は職場やママ友たちとのお花見という場が苦手でした。

自分のコミュニケーション能力が低いから楽しめないと思ってたんです。

それがなぜか今回は、楽しかったんですよね~♪

どうしてかな?を考えた時、自分の中にあったある「怖れ」に気が付いたのでシェアします。

私はお花見に限らず、人が集まってコミュニケーションをとる場にいるのは、苦手です。

なんで、こういう自分なのかなぁ。

と、考えても仕方がないことを考えたとき、ふと「私にとって家族とのコミュニケーションが、楽しくなかったからではないか」という考えが浮かびました。

ママ友たちとのお花見に向かって自転車を漕いでいる時にです(笑)

最近、職場で気づいたこと

yokkoさんさぁ、なんか緊張してる?

そう隣の席の同僚から声をかけられて、はっとしたことがあったんです。

その同僚からは「いつもなんかあたふたしてるよね」と声をかけられたこともありました。

その時は「そうですか?これでもだいぶ、あたふたしないようになってきたと思ってるんですけどねー。」と正直に答えた覚えがあります。

与えられた仕事の内容が理解できなかったり、次の対応を思いつかなかったりすると、すぐ焦ってしまうんです。

誰かに聞けばいいんですが、自分にとっては、そのハードルが高いんですね。

それは「皆忙しそうだから時間とらせて申し訳ない」とか「こんなこと聞いて、仕事わかってないことがバレてはずかし。。」という気持ちからだと思っていたんです。

でも、なんか緊張してる?と言われて気が付きました。

職場で人に話しかけるときにいつも緊張している、ということに。

電話だと、もっと緊張しています

緊張のあまり、ほんの少しですがどもり気味になってしまったり、早口になってしまったり。

でも、仕事ですから話しかけないわけにはいきません。

その時は、私って緊張しいなんだな、もっと自分の席でリラックスできるように、好きな飲み物とかおやつでも用意しよう、と引き出しの中身を充実させて終わっていました。

緊張感の底に横たわるもの

ママ友たちとのお花見の準備は、体調が思わしくないこともあり、あまり力がはいりませんでした。

それでも、おやつを2袋と自分たちのお弁当、飲み物は熱いお湯入りの大きめ水筒にインスタントコーヒーとティーバッグを準備して出かけました。

自転車を漕ぎながら、お花見だぁーとうきうきする気持ち半分、楽しく過ごせるか心配する気持ち半分の自分を感じていました。

そしてふと、職場で「緊張してる?」と言われたことを思い出したんです。

何で、人と話す時緊張するんだろう。

話すとき緊張するなんて、父親の前に座らされて叱られ、また新聞とか定規で頭を叩かれるんじゃないか、とドキドキしていた時みたい。。。

・・・!!!

そうか。そこなんだ。

私が人に対して感じる緊張感の底には「ああまた、叱られる。叩かれる。」ということへの怖れがあるんだ、ということに気づいたのです。

 

自分の家族とのコミュニケーションから学んだこと

私の家族のことは、↓こちらの記事でも少し書きましたが

ボコボコにされたラジカセの思い出 家族のあたたかさって・・・?

家庭内のコミュニケーションが楽しいものだったとは、言えません。

振り返ってみて、今につながる問題点が見えてきました。。

母との思い出

母は、自分の感情を抑えることが苦手な人でした。

子供に対しても、感情的な言動が多かったです。

父に対して怒りをぶつけるときも、すぐ感情的になって逆上していました。

食事のことでも、悲しい思い出があります。

私は煮干しや小魚が苦手で、だしをとった後の煮干しをよけ、小女子やちりめんを食べようとしなかったのですが、母は、栄養があるからとどうしてもそれを私に食べさせたかったのです。

朝残した魚は、必ずまた夜に出てきました。

どうしても食べたくなくて、母の目を盗んでゴミ箱に捨て、何度も怒られました。

それでも食べるのが嫌で、テーブルクロスの下に押し込み、さらに怒られました。

そうせずにはいられないくらい、本当にいやでいやでたまらなかったのに、食べないと母に怒られます。

泣きながら食べました。

しばらくすると、適当に飲み込むようになりました。

母と闘うことが、面倒になってしまったのです。

私さえ嫌なものを飲み込んでしまえば、母は怒りません。

そのころにはもう、自分の中にあきらめの気持ちができて、親に自分の感情を伝えても無駄だと、思い始めたのだと思います。

 

父との思い出

ラジカセの話や、今日の記事でも書きましたが、父は時折、怒りを爆発させる人でした。

私の頭を新聞や定規で叩くといっても、定規が折れそうなほど強く叩くわけではありません。

それでも、今叩かれるか、いつ叩かれるかといやなドキドキを感じながらお説教を聞くのは、いやなものでした。

どうして叱られることになるかというと、私が友達の家に遊びに行くと、なかなか帰ってこないからです。

5時までの約束が、5時半になったり、6時になったり。

友達の家にいるのは楽しくて、帰りたくなくなってしまうんです。

そして気が付くと、大抵いつも5時を過ぎています。

家に帰ると叱られるのがわかっているので、さらに帰りたくなくなります。

その悪循環の連続でした。

みんな6時まで遊んでいる、5時は早いから、6時にしてほしいと何度も何度も頼んだのですが、父も母も、取り合ってくれませんでした。

父は無口な人でしたが、時折ニュース番組や新聞の時事ネタについて自分の意見を言うことはあり、子供にもわかりやすく話をしてくれるので、父の話を聞くのは好きでした。

でもそれは、政治や経済の話ですし、「ふうーん。」と聞くだけで、父とのコミュニケーションを楽しむことにはつながっていませんでした。

 

家族とのコミュニケーションから学んだこと

親の意見は絶対で、子供はそれに従わなくてはいけない。

従わなければ、叩かれるかむりやり親の思い通りにさせられるか、どちらかが待っている。

それが、私の家族の掟でした。

親に自分の気持ちを伝えても、それが受け入れてもらえることは滅多にないとわかっているので、たまにそうしようと思う時は、ものすごくエネルギーが必要でした。

何かというとすぐ叱られるので、親に話しかける時には「どうしたら叱られないように伝えられるか」ということばかり、考えていた気がします。

おそらくいつの間にか、家族以外の人に対しても、同じようなコミュニケーションをとるようになってしまったんだと思うのです。

自分の気持ちを素直に言葉にすることは、まず避ける

自分が我慢することで相手が気分良くいてくれるなら、その方が楽だから。

相手を怒らせないようにするには、どうしたらいいか。

相手を不機嫌にしないようにするには、どういう言葉を選べばいいか

そういう風に考えることがあまりにも自然になってしまって、人とコミュニケーションをとる時に必ずそれを考えてしまうのだと思います。

でもそれって、とっても疲れるんですよ。

だから私は「自分はコミュニケーションが苦手なんだ」と感じてきたんだと思います。

私にとってはずっと「コミュニケーションすること=疲れること」だったからです。

自分だけが勝手に気を遣って疲れていた、ということですね。

気づいてしまえば非常にバカバカしいことではあるんですが、それが当たり前になっているから、全然気が付かないんです。

悲しいことに、気づいた私にはすでに子供が二人もいて、齢50が近づいてきています。

気づくまでに何十年もかかって、子供たちは結構大きくなってしまいました(^^;

おそらく私と子供たちとの間のコミュニケーションにも改善の余地がたくさんあるはずですし、その関係から学んだ子供たちが人と関わるとき、果たしていいコミュニケーションができるのか。。

考えると、怖くなります。

年齢を重ねるにつれ、自分を変えていく難しさを感じますしね。

でも、気づいたのですから。

諦めずに少しづつ、人と楽しくコミュニケーションが取れる人になりたいと思います。

 

桜を眺めつつ、子供たちそっちのけでママ友とのおしゃべりを楽しんだ日

自転車を漕ぎながら、突然自分に「私にとって家族とのコミュニケーションが楽しくなかったから、コミュニケーション自体が苦手だ、辛いと思っている」という気づきが天から降りてきて、私は大いに戸惑いました。

戸惑いましたが、それも天からの贈り物。

気づいたことで、今日のお花見では何が変わるのか、贈り物に感謝しながら存分に楽しもうと思いました。

いつもなら、お花見の日に体調を崩した自分ををちょっと責めたり、皆とお酒が飲めないことを申し訳なく思ったりしていたと思います。

でも、「もっとおやつ持ってくればよかったな。でも沢山持ってきた人がいるから、えーい沢山いただいちゃおう」「お酒飲めなくて残念。でも暖かい飲み物を喜んでくれたひとがいたからよかった」などと自分が感じていることと素直に向き合いつつ、皆とおしゃべりを楽しむことができました。

いつもなら、どのタイミングで帰ろうかな?と考えてしまうことがある位なのに、時間の経つのがあっという間でした。

コミュニケーションが苦手だ、辛いと思っている人は、実は結構多いのではないかと思います。

人によって苦手だったり辛いところのポイントは違うと思うのですが、そこに向き合う時に自分が感じる「感情」を見つめてみるのは、どうでしょう。

そこで見つけたあなた自身の気持ちを、思いっきり感じて認めてあげると、それだけで、私のように何かが変わるかもしれませんよ。

今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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