家族なんて面倒なだけでいらないもの、いなくても大丈夫なものでしょうか?
家族を失った人が失うものが確かにあると思うんです。
そしてそれは、もう取り戻せないこともあるんです。
主人の両親が住む家を手放すことになり、同居していた姑の姉と3人で住んでもらうための家をつれあいが買ったのです。
しかし結局は、そこには主人のおばが一人で住むことになった、というところまでお話しました。
そして、義理の両親はというと。。。実は、まだまだ続きがあるのです。
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おばちゃんは、一人暮らしを満喫
一人で、60㎡ほどもあるマンションに住み始めたおばちゃん。
大きなダイニングテーブルに一人座り、自分が好きな食べ物を並べてお茶を飲み、テレビを見る生活です。
近所にお気に入りの薬局を見つけて、そこのおばちゃまとお友達になり、スーパーで買い物した帰りに立ち寄ってはおしゃべりを楽しんでいました。
出かけるのが面倒な時には、デリバリーでお寿司を頼んでみたり、たまにタクシーで近くのターミナル駅に行き、お気に入りのお店で沢山の総菜を買い込んだり、うなぎを食べたり。
優雅なものです。
家賃分ぐらい私たちに払ってほしいと、思わなかったわけではありません。
ですが、家を失ったことで姑がさんざん文句を言われ責められ続けていたり、なんと私の実家にまで電話をかけて愚痴を言われたりするうちに、そんなことはどうでもよくなりました。
私は、母からはもちろん、自分のおばにまで電話をもらって、本当に大丈夫なのかと真剣に心配され、愕然としました。
こんな風に、自分の結婚のことで実家や親戚にまで心配をかけるはずではなかったのに。。
自分の結婚の問題は、自分で解決できると思っていたのです。
しかし、実際には違いました。
おばちゃんには、一人で楽しく暮らしてもらい、他人に文句を言おうなどという気持ちを無くしてもらう必要がありました。
ですから、優雅な一人暮らしを満喫してもらうことにしたのです。
当時おばちゃんはまだ近所に出歩く程度なら一人で普通に行動できましたし、病院にも自分で行くことができていました。
結婚したことのない人ですから、一人で暮らすことには全く問題ありません。
引っ越して2年ほどの間に、おばちゃんの顔を見に行くのは、年に2~3回になっていきました。
ほぼ、家族とは会っていない状態が続いたということですね。
舅と姑のその後
おばちゃんとは離れて暮らし始めた舅と姑ですが、なぜか転々と住む場所を変えていきました。
2年ほどの間に3回引っ越したと思います。
知人のつてを頼って住む場所を探しては引っ越す、ということを繰り返し、最後に落ち着いたアパートは、確かにそれまでの場所よりも居心地のよいところでした。
そこに落ち着いて2年目だったでしょうか、年末につれあいの妹家族と私たちが集まって皆でテーブルを囲んだ日があったんです。
ちゃぶ台は小さすぎてみんなの食卓にならないので、ふすまが一枚はずされて、テーブル代わりになっていました。
思い出すと涙が出てしまいます。
姑が一つしかないコンロで一生懸命腕をふるってくれた料理が並び、子供たちには大きなアンパンマンのなかにお菓子が詰まったお人形が用意されて、本当に久しぶりに家族団らんの暖かな時間を過ごせた日でした。
そしてそれが、舅が生前、自分の子供や孫たちに会った、最後の日となりました。
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家族を失った人が失うものとは
年が明けて2月のある日、姑からの電話があり「お父さんが救急車で運ばれた、すぐ来てほしい」というのです。
私は近所のママ友に娘をあずかってもらい、急いで車を走らせて、病院に向かいました。
病院について救急に駆け込むと、いきなり「その人はもうここにはいない。霊安室に行ってください。」というのです。
あまりのことに言葉も出ず、急いで霊安室に向かったのですが、行かれた経験のある方はおられるでしょうか。
霊安室は、病院の地下など、こんなところに部屋があったのかと思うくらいに分かりにくく、薄暗く、隠れた場所にあるものです。
部屋にたどり着くまでにとても長い時間がかかったような気がしました。
ようやくたどり着くと、姑がベッドの傍らにぼんやりと座っていました。
何を、どう話したのかもよく覚えていないのですが、
舅が今朝お手洗いに立ったときに倒れたこと、
救急車を呼んだが、トイレのドアが倒れた舅の体にひっかかってなかなか助け出せなかったこと、
移動中も救命措置が施され、病院に着いてからも措置は行われたけれども亡くなってしまったこと。。
そういうことを、一通り聞いたと思います。
姑が入っているという葬儀の互助会の連絡先を聞いて、その場から連絡し、納棺の手配をしましたが、色々わからないことだらけでした。
この時に経験したことは、大人になったら誰もが知っておく必要があることだと思います(こちらの記事をどうぞ)→家族が突然亡くなった!最初にやるべきこと&決めておくといいこと
自宅に遺体を安置する場所がないので、姑と一緒に遺体を預ける場所まで行き、そこでようやくつれあいや義理の妹と合流できたと思います。
その場で葬儀の打ち合わせを行い、数日後に葬儀となりました。
姑は「(舅が亡くなったアパートに)一人でいたくない」というので、私たちの住む社宅で過ごしていました。
気力の衰えなのか、歩き方がちょっと前のめりになっていて、いつも転びそうになっているような、変な感じなのです。
一度、本当に転んでしまったことがありました。
その時、私一人では起こすことができなかったんです。
大人の体は、想像していたよりずっと重いんですよ。驚きました。
幸いなことに、向かい側から自転車でやってきた人がキキーっと止まって、テキパキと姑を抱き起し、私の腕をとって姑を支える体勢を作り、はいっ、と言ってまた自転車を漕いで去っていきました。
こんなことがあるなんて。不思議ですね。
神様が見ていてくださったのだと、本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
それ以降しばらくは、歩くときに姑を支えるようになりました。
と同時に、姑が生きるための気力を失いかけていること、今は私たちと一緒に暮らす必要があるかもしれないことも、感じました。
長年連れ添った伴侶を失うということは、その人を支えるために生きている人の生きる力を奪ってしまうものなのだということを、初めて意識させられた体験でした。
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おばちゃんが失っていたもの
葬儀が終わったしばらくあと、納骨の日の出来事です。
私は本当にびっくりしました。
朝おばちゃんを迎えに行ってドアをあけたら、そこにヤマンバのような人がいたからです。
いつもこざっぱりとしたショートカットだった髪はぼさぼさにのびて顔にかかっています。
時々おばちゃんが身に着けていたバンダナやヘアピンは、おしゃれなのかと思っていたけれど、のびた髪を隠すためだったのか~と初めて気が付きました。
いつも電話になかなか出てくれない人で、その時も納骨の予定が決まってからたびたび電話していたものの、電話に出てくれたのは前日でした。
今回は朝が早かったこともあり、おそらく身支度に必死で、ヘアピンで髪を整える暇もなかったのでしょう。
手の爪も伸びていて、お手入れをしていないことがうかがえます。
服装も、喪服のワンピースのベルトが途中までしか通せず、ぶら下がっています。
一人きりで気ままな生活を続けてきた結果、生活に必要な基礎体力や、日々の身づくろいをする気力までもが彼女から失われていたのです。
おばちゃんは突然の訪問をとても嫌がる人でしたが、それにはちゃんと理由があったのだ、人に会う前には一応がんばって身なりを整えていたのだ、ということが初めてわかりました。
おそらくは、体力がなくなり、喪服を取り出して服装を整えるだけで精一杯で、髪を切りに行くことやつめの手入れをすることができなかったんですね。
他人に会うことがない生活が、こんな風に人に影響するということを、私は想像したこともありませんでした。
街で見かけるお年寄りの中には、確かに身なりに全く構わない感じの人が時折いますけれど、それはこういう原因もあるのかと、初めて思い至りました。
お墓に着いたおばちゃんは、駐車場から休憩所までは歩いて移動したものの、階段を降りて少し歩いたところにあるお墓までは、行くことができませんでした。
ゼイゼイと息が切れて、歩き続けることができないのです。
悪いけど休憩所で待つわ、という彼女を残して私たちは納骨に向かいました。
これからはおばちゃんを尋ねる回数を増やして、彼女のケアをしなくてはいけないな、と私が覚悟を決めた瞬間でした。
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人間は、自分以外の人が身近にいるからちゃんと生きていける
誰かに見られているから、身なりを整える。誰かに必要とされているから、毎日ご飯を作ってあげなくちゃ、洗濯も掃除もしなくちゃ、と頑張れる。
人間が人間らしく生きていくためには、こういうことが必要です。
もし家族を亡くして一人きりで生きていくことになったら、家のほかに自分の居場所を見つける必要があると思います。
そしてそれは、必要になったからと急に見つけられるものではないんですよね。
自分自身が動けるうちに、自分が心地よく過ごせるコミュニティを探して人間関係を作ったり、家の近所にお友達を作っておくことが本当に大事なことだと思います。
今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。